救命胴衣とガスマスクを装着したクルーたちが、脱出用の艦載艇に乗り込んでいく。爆炎のなかを切り抜けてきた要員たちの顔はどれも煤けていて、夜の暗闇の中ではもう誰が誰かも見分けがつかぬほどだった。

それでも、鷲尾は艦載艇のなかに検体と少年の姿がないことに気づいて、

「検体はどうした!?」

と問うた。自分たちをこの絶望的戦いに誘った少年と少女。《エスピランサ》の希望――そもそも自分たちは、彼らのために戦っていたのではないか……。

「《神の杖》は艦隊中央部、主機を貫いています。おそらく助かっていないでしょう……」

砲雷長の言葉に、鷲尾はさっと顔色を変え、舷側(げんそく)から艦載機を支える揚艇機のワイヤーを伝って艦に戻ろうとする。

「艦長!」

そんな鷲尾を、砲雷長が押し戻す。

「艦長も死にます!」

怒鳴りつけるような砲雷長の声に、冷静さを取り戻した鷲尾は、「……すまない。出してくれ」と告げた。揚艇機のワイヤーロックが解除されて、艦載機が《エスピランサ》から離れていく。耳をつんざくような金属のきしみをあげる艦は、突き刺さった鋼鉄の槍によって亀裂が走り、空中分解寸前のところだった。艦から離れたとき、さらに艦内で爆発が起こって、その衝撃波に発進したばかりの艦載機が激しく揺れる。

クルーたちは、短いながらも作戦行動を共にした《エスピランサ》の最期を見届けようと、後ろ髪引かれる思いで見送った。

「《エスピランサ》が……沈む」

爆炎の中で傾ぎ、錐もみ状態になりならがゆっくり降下をはじめる。沿岸沿いに配備されている戦車兵器《ダイモス》たちも、《神の杖》による誘爆でほぼ壊滅状態になっており、ミサイルの迎撃態勢はあっけなく破られた形となった。

艦載艇は日本海に着水して、陸を目指して航行を開始した。誰一人言葉を発することはなく、まるで葬列のようだった。

「核ミサイル、第二波発射されました!」

《エスピランサ》とデータリンクしている携帯端末をモニタリングしている要員の報告の声が飛ぶ。

「とどめを……刺すつもりか?」

上空を見あげれば、再突入を開始する幾筋もの核弾頭の航跡が確認できる。世界が、終わる――静かに瞑目した鷲尾の耳に届いてきたのは、しかし、要員たちの困惑の声だった。

「ん? どうした!?」

と鷲尾が問えば、

「《エスピランサ》内部に高エネルギー反応!」

とモニタリングする要員の声が起こった。

「そんなはずがない!」

池波博士が否定する。

「主機は、沈黙したはずだ!」

「なんだ、これ……位相が変化していきます!」

要員の見守るモニターには、脳波計に似た曲線グラフが波打っている。それは『オプト・クリスタル』への光照射によって生ずる光学音子(フォノン)の位相変化をあらわしたものだ。曲線グラフが示す位相が幾重にも重なって、アゲハチョウに酷似した図形を現出させている。

「アゲハ現象か……!?」

池波が言った。

「アゲハ現象?」

鸚鵡返しに問う鷲尾に、池波はメガネを直しながら応える。

「〝彼女〟が目覚めた……」

爆炎と黒煙を押し返すようにして、亀裂の走った《エスピランサ》が姿を現し、まばゆいばかりの白い光に包まれる。もはや見ていられないほどの強光度の明るさに、艦載艇の要員たちが手で眼を覆う。

艦隊後方に設置されていた反射装置(リフレクター)がX字に展開し、自らが発する光を天空へ差しのばしていく。日本海側に突如として出現したこの光の柱は、こんどは無数のレーザーを上空に向かって放つ。

再突入を開始した核弾頭が、レーザーによって迎撃され、空中爆破していく。幾筋もの光が空を舐め、その度に爆発が起こって空がどよめく。

厚い雲に覆われた夜空が何度か明るくなり、さらに光の柱はまるでブラックホールのように、空を覆う真っ黒な雲を吸収し始めた。

「なにが起きている!?」

核戦争後の寒冷化と暗黒化、俗に言う「核の冬」によって、世界はコンクリートのような分厚い雲に覆われていた。

その分厚い雲がいま、晴れようとしている……。

「超光触媒です!」

携帯端末の画面を横からのぞいていた池波博士が言った。

「大気中の紫外線を吸収して、水素に還元している……」

「大気汚染を浄化するというのか……!?」

まるで水中でイルカたちが歌っているような超高周波を発した《エスピランサ》は、反射装置(リフレクター)を広げて、黄金の鱗粉を周囲に散布する。

分厚い雲の隙間から、太陽の光が射し、鈍色の日本海を照らし始めた。同時に、それまで光の柱を現出させていた《エスピランサ》は、最後の力を使い切ったかのように、日本海へと沈んでいった。派手に水しぶきが上がり、衝撃波が艦載艇を揺らす。しぶきは朝日に反射してきらめき、赤橙黄緑青藍紫(スペクトル)の虹を現出させた。余りに神秘的な光景に、鷲尾はガスマスクを外す。

「艦長……!?」

大きく息を吸う。何十年ぶりだろう? 朝日を浴びながら、大きく息を吸うなんて。

「……大丈夫だ」

鷲尾が言った。

「これが、《エスピランサ》を……〝彼女〟を生み出した技術者たちの、真の想いだったのだな」

砲雷長も倣ってガスマスクを外す。

「タバコがあればなおのことよかったのですが……」

「ちがいない」

ふっと鷲尾と砲雷長が笑うと、要員たちもガスマスクを外していく。

「データ上では、『かの国』が保有する核兵器は撃ち尽くしたはずです」

砲雷長が鷲尾の側に来て告げた。

「現存する核兵器の3分の2が消滅したことになります……」

「こちらは筒状戦車兵器のデータリンクを握っている。『かの国』を滅ぼすこともできるな……」

発言の真意を探るように、砲雷長が窺うような目を鷲尾に向けてくる。わかっていると憫笑を洩らした鷲尾は、

「だが、〝彼女〟はそれを良しとしないだろう」

ときっぱりと告げると、砲雷長もふんと笑った。

「われわれ軍人も、お役ご免ということですか……」

「いや、われらにはあらたな役目が待っている」

予想外の艦長の言葉に、砲雷長が顔を振り向ける。

「あらたな役目?」

「守ることだ」

短く、しかし力強く鷲尾が言う。

「これから新しい時代が始まる。わたしたち大人の役割は、〝彼女〟が与えたくれたこの新世界、新しい秩序を守り抜くこと。そして、子供たちに受け継ぐことだ」

鷲尾が空を見あげると、夜空を流れ星のように賭ける光の筋があらわれた。《エスピランサ》だ。ついに艦が沈んでいったのだった。

「負の遺産ではなく、希望を……希望(エスピランサ)の光を、だ」

日本海側に沈んでいった《エスピランサ》に、鷲尾は敬礼した。

 

 

 

夜明けの朝日が、潜水球(バチスフィア)の丸い潜水窓に射していた。窮屈な潜水球(バチスフィア)のなかで目覚めたナナは、眼前に広がるまばゆいばかりの光の洪水に思わず目を覆った。『オプト・クリスタル』に感応しているとき以外は、盲目であるはずの自分が、いまは光を感じている。閉じた瞼に、朝日の温もりすら感じている。手もとに握りしめているはずの『オプト・クリスタル』がないことに気づいたナナは、そこでようやく側にいたヒロの存在に気がついたのだった。

恐る恐る目を開くと、目の前には美しい光景が広がっていた。潜水球(バチスフィア)が海に浮かんでいる。眼前の海の地平線からは、ゆっくり朝日が昇ってくる。日本海側の寒々とした景色を鮮やかに染め上げていく陽の光に目を細めつつ、水蒸気が朝日を反射して七色の橋を空に架けていくのを目の当たりにした。

これが世界なのか。こんなにも世界は光であふれていたのか。だれかとこの感動を共有したい。ナナは、側にいたヒロの肩を揺すって、「ねえ、見て!わたし目が見えるの!」と言った。

だが、ヒロはぼうっと潜水窓を眺めているだけだった。その瞳は虚ろで、まるで死んだ魚のような目をしていた。

「ヒロ……? どうしたの……?」

ナナが問う。

「ナナ……? どこにいるの?」

「ここよ、ここにいるじゃない……」

ナナがふたたびヒロの肩を叩く。その手に重ねられたヒロの心細そうな手のひらに、ナナははっとした。

ヒロは、失明している――。

《エスピランサ》が光触媒で紫外線を吸収した際、ヒロは逆に紫外線を浴びて視力を失ってしまった――。

あまりのことにナナが言葉を失っていると、ヒロは、

「心配しなくていいよ」

とやさしく言った。

「それより教えてくれないか。世界はいま、どうなっている?」

ヒロは瞼を閉じて、ナナに寄りかかった。

「……光に満ちあふれている」

ナナは涙を堪えてそう言うと、ヒロの手をぎゅっと握りしめた。